ヱビスビアタウン(YEBISU BEER TOWN)

Vol.6
ビヤホールの歴史を作った
恵比寿ビール

三田用水の箱型暗渠の遺構。
橋の右手奥に立つのが「恵比寿ビールBeer Hall」(1905年)。向かいには今年で創業123年を迎える玩具専門店「銀座 博品館」。

明治23年(1890年)に誕生した恵比寿ビールは、日本のビール界に様々な足跡を残しています。今回は現代まで続くビヤホール文化の誕生に恵比寿ビールが果たした大きな役割についてお話しします。

ヱビスビール130年の歴史 第5回はこちら!

【前回記事】ヱビスビール130年の歴史 第5回はこちら!

苦境に立つ日本麦酒醸造と
「東洋のビール王」馬越恭平の登場

「恵比寿ビヤホール」の開設

倒産寸前の日本麦酒醸造を生き返らせ、急速に業績を向上させた馬越恭平。前回でもお話したように卓越したアイデアマンでもありました。そのひとつが「恵比寿ビールBeer Hall」のオープン。明治32年(1899年)8月4日、京橋区南金六町5番地(現・中央区銀座八丁目)に誕生し、横文字入り新聞広告が世間の話題となりました。現代の私たちは気軽にビヤホールを利用していますが、当時の人たちにはビールをメインに提供する洒落た飲食店はとても新鮮なものでした。

なお8月4日は、現在、「ビヤホールの日」にもなっています。この年、明治政府発足以来の懸案であった不平等条約が改正され、それを記念する祝賀会が帝国ホテルで開催されることになりますが、それが8月5日のこと。この一大イベントを照準に、お祭り好きな東京人気質を計算に入れたうえで、馬越はその前日を開業日に当てたのです。なんとも仕掛け好きな馬越らしい開店戦略ではありませんか?

恵比寿ビールBeer Hall店内。内装デザインを設計した妻木頼黄(つまきよりなか)は、ほかにも日本橋や旧横浜新港埠頭倉庫(現・横浜赤レンガ倉庫)も担った、明治建築界の三大巨匠の一人。

同ビヤホールは、烏森の方から銀座方面へ通ずる新橋を渡った右角にあるレンガ造り2階建ての階上35坪(116㎡)を借りて開業しました。入り口から向かって左側のカウンターにニッケル製のスタンドを据え、床はリノリューム張り、椅子やテーブルはビール樽にも使われるナラを使用するなど内装はたいへん凝ったつくりで、加えてジョッキは当時としては高価なガラス製の0.5ℓ入りで提供されていました。

来たる開業日、馬越は取引先や大株主を招待したこともあり、初日からなんと225ℓを売り上げます。これは予想外の素晴らしい売行きでした。祝賀気分も手伝って評判は評判を呼び、やがて本所や深川あたりから飲みにくる客も現れます。ついには1週間も経つと1,000ℓに及ぶ日もあり、満員御礼による客止めや、「本日売切申候」の張り札を出すほどの人気店となりました。

馬越のセンスが生んだネーミング

馬越のビヤホール開設の狙いはもっぱら恵比寿ビールの宣伝でしたが、それがまさに図に当たり、大繁盛した格好となりました。ところでこの斬新なビヤホールというネーミング。どうやら馬越も“ビール専売居酒屋”ともいうべき日本初の新型店の名前選びにはだいぶ苦労したようです。

アメリカ帰りの日本人や宣教師など複数の外国人の知恵も仰ぎ、「ビヤルーム」「ビヤバー」「ビヤサロン」などいろいろな案が出ますが、どれもしっくりこない。熟慮を重ねた末、「Beer」とのバランスが最もよい(一説にはドイツ語のBierhalleを参考にしたとも)として「ビヤホール」に決定しました。当時の英米人にはいわゆる和製英語、変なネーミングと思われたようですが、現在では欧米の辞書にも“beer hall”の項目があります。一方で、こちらもなじみのある「ビアガーデン」という言い方は和製英語で、外国人には伝わりにくいのでご注意を。

さて、以前にもビールをメインに提供するお店はありましたが、ビヤホールという呼び方は恵比寿ビヤホールが最初です。そして、ビヤホール人気が大きな影響を与え、このネーミングにあやかった、洋風なモダン建築の「ミルクホール」、さらにはお汁粉ホールなるものも誕生。こうして「○○ホール」は一般的な名称となりました。

目黒工場内の貯水池と、1903年開業のビヤホール「開盛亭」。手前には立った恵比寿様が。

恵比寿ビヤホール開設から4年経った明治36年(1903年)年7月、日本麦酒は、またも新企画として工場内にビヤホール「開盛亭」を開業します。こちらはさらに娯楽性が強く、ビリヤード台やテニスコートで集客をかけていた一方で、市中の小宴会や園遊会なども引き受け、使い勝手のいい店だと評判もよく、繁盛しました。また、41年の工場大改造計画と合わせて、工場内の池辺に移転するとともに大広間が新設されます。池に影を映す白い壁のビヤホールは、実に壮観だったと伝えられています。しかし惜しくもこの開盛亭は、試験室新築のため大正10年ごろに閉鎖されました。

1939年に開店した「新宿ビヤホール」は、現在の新宿ライオン会館の前身。2階建ての木造建築は戦災で焼失するが、終戦後バラックでの営業を経て1953年に新築として再開、そして1973年に現在の6階建ての姿になった。

ビヤホール復活

明治に生まれたビヤホールは各社が参入し、人気スポットとして人々に親しまれていました。しかし、戦争の影響でビヤホールの営業はもとより、ビールの生産も制限されていきます。多くのビールと同様に恵比寿ビールの名前も消えてしまいますが、この話はまた別の機会に。

ようやく一般の需要に応えられる段階にまで回復したのは昭和24年(1949年)のこと。同年5月に料飲店の再開が許され、翌6月には東京でも料飲店が営業を再開しました。

そして、“ビール自由販売”を大きく印象づけたのは、ビヤホールの復活でした。それまで、大日本麦酒のビヤホールは神戸ビヤホールなど4店が進駐軍専用として営業。他の多くは喫茶店として業態変更していたか、または閉鎖されたままでしたが、新宿ビヤホールをはじめとして、各地で次々と再開し始めました。

登録有形文化財(建築物)にも指定されているビヤホールライオン銀座7丁目店のガラス縦2.75m 横5.75mの大きさがあるモザイク壁画。ビール麦の収穫に働く婦人たちを描いたもので、初めてすべて日本人によって制作された。

復活したビヤホールのなかでも、現在も続く日本最古のビヤホールが「ビヤホールライオン 銀座7丁目店」。ビール好きの聖地の一つでもあるこの店は、昭和9年(1934年)4月8日、かつての大日本麦酒(日本麦酒など3社が合同した会社)の本社ビルが建設された際に、1階を直営のビヤホールとして開業します。

設計を手がけた菅原栄蔵は「豊穣と収穫」をテーマに、歴史に残るアール・デコ調のモダンな建物を築き上げました。大麦や葡萄をモチーフとした装飾が施され、誰もがゆったりと生ビールを楽しむ雰囲気となっています。

“天下一の建物に。後世まで残る日本を代表するビヤホールに”の想いを込められ作られた「ビヤホールライオン 銀座7丁目店」。戦火にも耐え、昭和初期の雰囲気を色濃く残して、今日もその昭和の薫りを愛する多くのビールファンが訪れています。

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