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ヱビス図鑑
改めて探報するヱビスの通ってきた道 vol.3
ヱビスビール誕生:醸造所建設と水の話

ヱビス図鑑 改めて探報するヱビスの通ってきた道 vol.3 ヱビスビール誕生:醸造所建設と水の話
三田用水の箱型暗渠の遺構。

ヱビスビール130年の歴史、第2回は、醸造所の完成前後を深掘っていきます(第1回はヱビス図鑑:改めて探報するヱビスの通ってきた道 vol.1をご覧ください)。
ご愛飲いただいているヱビスビールの誕生秘話、お楽しみください。

醸造所建設に不可欠なのは「土地」と「水」の確保

醸造所設立において重要なのは、まず土地の確保。この土地については、初代社長の鎌田氏の尽力で創立願書に示した9,000坪とはいかなかったものの、宅地・畑5,743坪を東京府下荏原郡三田村に確保しました。
今の恵比寿ガーデンプレイス界隈です。

そして、ビール造りの最も重要な要素として「水」の確保があります。原材料としての水はもちろんのこと、それ以外にビール造りには大量の水が使われます。当時、製造するビールの量の10倍とも20倍とも言われるほどの水を必要としたそうです。
日本麦酒醸造は工場用地を選定する際、当然のことながら用水を考慮しました。工場建設用地内に3カ所の井戸を掘り鑑定を来日中のドイツ人醸造技師に委嘱した結果、「多量ノ麦酒ヲ醸造スルニ井水而巳ニテハ不足二付,他二良水ヲ求ムベク」という進言を得ました。つまり「井戸だけでは水が足りない」ということです。
これは、日本麦酒醸造の事業の成否を左右する重大問題でした。数々の対応策を協議した結果、三田用水からの取水によって不足分を補うことになりました。東京府への申請や流域の水田所有者などとの交渉を経て、明治21年(1888年)頃に水の確保の目処がたちました。

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明治22年(1889年)に工場が稼働し始めてからも水の確保は重要課題だった。この写真は明治35年(1902年)6月に竣工した沈澄池(後の第1貯水池)。

さて、皆さんここで出てくる三田用水についてはご存知ですか?
三田用水は、寛文4年(1664年)に中目黒、大崎、三田といった江戸西南部への配水のため、作られた三田上水が起源です。三田上水は玉川上水を分水したものです。江戸市中の生活用水や農業用水として重要な役割を持っていました。享保7年(1722年)にいったん廃止されますが、灌漑用に利用していた村々から嘆願が相次ぎ、享保9年(1724年)に復活。その後、並行して流れていた細川用水と統合されて三田用水として整備されました。現在の世田谷区北沢から駒場、青葉台、恵比寿、目黒を巡り高輪台から北品川で目黒川に流れ込むまで約10㎞の長さがあります。

重要な水源であったため、水利権を得るのは大変なことでした。日本麦酒醸造も後に製造量が増加すると当初の確保分では足りなくなり、水利組合と増やすための厳しい交渉が続きました。水利権確保のためもあり、明治31年(1898年)には上流用水路の整備費用負担、また、昭和4年(1929年)にはこれも自社負担で暗渠化の工事を行いました。水質の保持のためにも重要な工事で、完成まで10年近くかかったそうです。
昭和49年(1974年)に通水が停止され、三田上水は長い歴史の幕を閉じます。

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こちらは、駒場にあるかつてヱビスビールの製造に使われていた三田用水の箱型暗渠の遺構。此の暗渠を通った水は、1970年代まで製造用水として活用されていたとのことです。

土地、水に加え、もうひとつ欠かせないのはビール醸造用設備です。
機械設備は計画の当初からドイツ製一式を購入する予定となっていました。当時、ドイツに滞在中の北海道庁3等技師である橋口文蔵がラスペー商会のドイツ人クラインウォルトを介して機械製造所と折衝した結果、明治21年(1888年)3月に購入機械設備の選定や価格などの交渉が成功した旨の電報が届きました。その代価は、およそ6万円だったといいます。現在だと約12億円。今時の港区の超高級マンションのお値段ですね。
用水対策、醸造用機械設備などと合わせて、醸造場の建設も明治21年(1888年)10月から開始。会社創立後1年余を経ての着工でした。
ドイツには醸造用機械設備だけではなく、建築用鉄材も注文していました。
着工後は工事も順調に進み、明治22年(1889年)6月に上棟式を行い、10月に竣工しました。
土地、水、設備まで整ったあと、必要なのは「人」です。

ドイツからの機械設備到着に合わせて明治22年(1889年)3月にドイツの機械技師フランツ・ シュムッカーが来日し、醸造場建築と並行して機械設備の据付にも着手しました。
また、ドイツの「ストックビール」の醸造技師であったカール・カイザーをブラウマイスター(醸造主任技師)として雇用することとし、明治22年(1889年)1月に契約を結びました。カイザーは4月に来日し、その助手オットー・シャンツも9月に来日。ちなみに、カイザーの初年度月俸は225円、助手のシャンツは90円。明治の1円は、現在の2万円くらいの価値があったとされていますから、羨ましいくらいの高給ということがわかります。つまりそれくらい貴重な人材だったということです。
カイザーはその後、約2年ごとに契約更新を繰り返し、明治31年(1898年)まで主任技師を務めました。助手のシャンツは明治26年(1893年)4月に辞職しています。

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建築および機械設備の据付が明治22年(1889年)12月上旬に終わると、レンガ造り3階建てで内容、外観ともにドイツ式の近代的ビール工場が目黒村(旧・三山村)の畑の真ん中に出現し、工場のすぐ横を走る日本鉄道の乗客の目をみはらせました。
工場の1階は、汽缶室、仕込室、製氷機室、分析室、製品場などの各室に分かれ、ドイツ製を中心に最新の製造設備が配置されました。

醸造所が完成、人材も揃いました。次回はいよいよ恵比寿ビールの製造が始まります。

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