Vol.5
苦境に立つ日本麦酒醸造と
「東洋のビール王」馬越恭平の登場
ヱビスビール130年の歴史、前回は発売された恵比寿ビールが、高い評価を受けたものの販売そのものが伸び悩んだというところまで。その後、日本麦酒醸造はさらなる経営難に陥り、存続が危ぶまれる状況でした。これを救ったのが、「東洋のビール王」と称される馬越恭平という男。経営再建に辣腕をふるった彼は、わずか1年足らずで黒字転換に成功するのです。ヱビスビールの歴史秘話、今回もお楽しみください。
【前回記事】ヱビスビール130年の歴史 第4回はこちら!
「恵比寿ビール」いよいよ発売!明治23(1890)年2月に発売された恵比寿ビール。評価は上々だったものの、販売特約店は全国でわずか3店という寂しいスタートでした。発売後4ヶ月こそ利益を計上し、株主へ10%という高い配当が行われたが、同年の恐慌の影響もあり、年度後期には目標の半分にも満たない実績で大赤字へと転落。
会社も再興を図って、東京の一等地である京橋区采女町(現在の銀座5丁目)にあった本社事務所を、当時はまだ“村”であった三田の工場構内に移すなど、経費の節減に努めます。しかし、ついには従業員に給料も払えず、やがて解散を求める株主の声も聞かれるようになりました。
明治23(1890)年2月に発売された恵比寿ビール。評価は上々だったものの、販売特約店は全国でわずか3店という寂しいスタートでした。発売後4ヶ月こそ利益を計上し、株主へ10%という高い配当が行われたが、同年の恐慌の影響もあり、年度後期には目標の半分にも満たない実績で大赤字へと転落。
会社も再興を図って、東京の一等地である京橋区采女町(現在の銀座5丁目)にあった本社事務所を、当時はまだ“村”であった三田の工場構内に移すなど、経費の節減に努めます。しかし、ついには従業員に給料も払えず、やがて解散を求める株主の声も聞かれるようになりました。
そこで経営首脳陣は、大株主でもある三井物産や日本郵船に対策を相談。果たして、日本麦酒醸造の再建役として、三井創立時からの一員で「三井の三羽ガラス」と呼ばれた一人、馬越恭平の登場となるのです。
馬越は、のちに対露諜報活動で活躍する石光真清の実兄でもある、三井物産で会計主任の石光真澄を呼び寄せ、まずは同社の実態調査に着手。その結果、計上された赤字額をはるかに上回る実質赤字など、記録された数字以上の窮状が明らかになります。そして、これは単なる売上不振によるものだけではなく、杜撰な資金管理の結果でもありました。先述した10%配当も、どうやら株主に好業績をアピールするためにあえて無理をしたものだったようです。
まさに崖っぷちの状況でしたが、幼少期、故郷の備中で「負けずの恭やん」と呼ばれていた馬越は、むしろ奮起して大胆な改革を進めていきます。まずは、社長・役員・監査役からなる役員制度から委員会制度に新経営体制へと転換。馬越自身が委員長に選ばれて、本格的に再建の陣頭指揮を取ることになるのです。
再建のための最重要課題は、徹底した経営の合理化でした。馬越はまず、事務員を減らし、役員手当も削減。
さらには、資本金を3分の1減資することを決議するなど、経費の見直しを図ります。そして、その最大の標的は、ドイツ人が経営するラスペー商会との契約でした。
同商会は海外の最新設備や原材料を調達・供給する商社で、国内で手広くビジネスを展開しており、日本麦酒醸造も
設立時から全面的にラスペーに依存していました。ところが当時の日本麦酒醸造には貿易の実務経験を持つ者がいません。そのため、同商会からの不利な取引を許してしまい、これが経営悪化の大きな一因となっていました。
生粋の営業マンで、輸入業務や為替相場にも明るかった馬越は、その専門知識を駆使してラスぺーの不当な利益を見抜き、同商会との契約を解除。代わって三井物産が後を引き継ぐことになります。原材料のほとんどを輸入に依存していただけに、この契約解除が経営の改善に寄与した効果は大きいものでした。
ただし、いくら合理化を進めても、肝心の売り上げが上がらないことには業績の立て直しは望めません。ビール自体の評価は高いため、とにかく販売店を拡大することが再建の成否を握る最大の鍵でした。馬越は事務員削減の反面、販路拡張の営業活動に社員を積極投入します。そして自らも先陣を切って、食品流通大手の国分商店に足を運び、恵比寿ビールの販売拡大に協力してほしいと頭を下げたといいます。
全社を挙げた営業活動は実を結び、たちまちのうちに大販売店は全国で16店、恵比寿ビールを取り扱う販売店も576店にまで拡大。売り上げの内訳をみると東京生まれのビールだけに本拠とする東京・横浜地区が約半数ととくに大きかったようです。「第8回実際報告」では、今後、地方の販路拡張と海外への輸出にも強化すべきだと強調しています。
馬越のチームによって行われた改革の成果はすさまじく、“解散一歩前”とまでいわれた日本麦酒醸造は、わずか一年で黒字転換し、正常に4.3%の配当を行える状態にまで回復します。株主総会は馬越の労をねぎらい、感謝状と記念品を贈ることを満場一致で議決したのです。
馬越はその後も非凡なアイディアマンぶりを発揮して、恵比寿ビールだけでなく日本のビール市場全体を大きく育てました。新橋に日本で最初のビアホールを建設や、全社員に半纏を着せた初荷祝、仕掛け花火でのPRなど、今に通じる種々のプロモーションアイデアを考案。 “四者作戦”と称した、学者・医者・役者・芸者をインフルエンサーとしたマーケティングも展開します。また、ビール副産物の炭酸を用いた日本初のサイダーの生産を始めますが、これが「サッポロ リボンシトロン」の始まりです。
1日4時間睡眠を豪語していた馬越は、一方で「居眠り名人」だったとも言われています。そんなマイペースの働き方の中から、斬新なひらめきの数々が生まれたのでしょうか。馬越は明治39(1906)年、麦酒税導入をきっかけに3社合同の大日本麦酒が発足した際にも、親交のあった渋沢栄一に請われて社長に就任。同社のシェアは79%にまで達し、馬越は「東洋のビール王」と謳われました。
さて、馬越恭平による再建ストーリー、いかがでしたでしょうか。倒産寸前の会社が一人の男の手によって救われる……。まるで映画か小説のようですが、これはまごう事なき実話です。今、私たちがヱビスビールを飲めるのは馬越恭平のおかげですね。