ヱビスビアタウン(YEBISU BEER TOWN)

ヱビス図鑑
改めて探報するヱビスの通ってきた道 vol.4
「恵比寿ビール」いよいよ発売!

ヱビス図鑑 改めて探報するヱビスの通ってきた道 vol.4 「恵比寿ビール」いよいよ発売!

ヱビスビール130年の歴史、前回までは醸造所を建設するにあたって欠かせない土地、水、設備などの準備から工場の完成までをお伝えしました。今回はいよいよ工場が稼働し、発売が開始となります。さて、その評判やいかに。
ご愛飲いただいているヱビスビールの誕生秘話、今回もお楽しみください。

機械設備の据付工事が明治22年(1889年)12月上旬に完了し、レンガ造り3階建てのドイツ式近代的ビール工場が目黒村(旧・三山村)に完成しました。ドイツから呼んだカール・カイザーの指導のもと12月12日に試醸を行ない、13日からドイツタイプのビールの本醸造が開始されたのです。麦芽、ホップなど原料もドイツ産を用いましたが、酵母はジャパン・ブルワリーから買ったものなどでした。
その醸造方法の概要は、仕込み1回につき麦芽1050kg、米50kg、ホップ25kgを使用し、3回煮沸法で熱麦汁量は40石(7216ℓ)でした。この麦汁を発酵開始温度の6.3℃まで冷却舟で冷却し、発酵最高温度は10℃、発酵日数は10日だったそうです。ここでちょっと気になるのは、米が使われていること。「麦酒税法」で米が副原料として使用を認められたのは明治37年(1904年)12月のこと。なぜこの時期から米を使っていたのか、そして本場ドイツの醸造技師であるカイザーがこれを許していたのか、真相はわかっていません。

日本麦酒醸造は、その創立願書に年産1000㎘(現在のビール大瓶約158万本分)と掲げたように、大資本と最新醸造設備、それにドイツ人醸造技師による本格的なドイツタイプのビールの販売に、大きな自信と期待を抱いていました。大消費地である東京府下に立地した初めての近代的なビール工場であっただけに、それはむしろ当然のことだったのです。
また、ビール醸造の開始に先立ち、明治22年(1889年)12月までに、ブランド名を「恵比寿ビール」(英語名「YEBISU BEER」)と決定し、商標登録されました。表記が「恵比寿」から「ヱビス」に変わるのは、発売から40年以上が過ぎた昭和11年(1936年)頃のことです。古くから七福神の一柱として福徳を授ける神とされ、商業の神、田の神、豊漁をもたらす神として日本人に親しまれた“縁起のよさ”を買われての命名とされていますが、命名者やその経緯などについての詳細は不明です。しかし、そのブランド名と恵比寿様のイラストは今もしっかりと受け継がれています。

ヱビス図鑑 改めて探報するヱビスの通ってきた道 vol.4 「恵比寿ビール」いよいよ発売!
初代のラベル写真
ヱビス図鑑 改めて探報するヱビスの通ってきた道 vol.4 「恵比寿ビール」いよいよ発売!
現行のラベル写真

醸造は始まったものの、日本麦酒醸造にとって当面の最大の課題は、全国的な販売網の構築でした。その第1段階として、東京市内および全国の主要都市に特約販売店を設けることとし、新聞広告などで希望者を募集しました。
しかし、額面3000円(現在の6千万円くらい)分以上の株券が身元保証金として必要なことがネックとなりました。明治22年(1889年)後半から23年(1890年)にかけては、1890年恐慌と呼ばれる日本最初の経済恐慌に直面した時期で、金融情勢は逼迫し経済は著しく停滞することになりました。そんな時期、3000円分の株券という条件をクリアして、新参の恵比寿ビールを取り扱いたいと考える人は現われなかったようです。
また、明治20年(1887年)ごろからビールの需要が急上昇したといっても、まだ愛好者は限られており、酒類商は清酒の売上げを損なうビールなど洋酒類の取扱いに積極的ではありませんでした。また、日本酒のメーカーも、ビールなどが「酒造業を衰退させる」という意見書を発表したりしていました。
こうした状況下でやむなく日本麦酒醸造は、関係者などの協力の末、明治23年(1890年)2月にとりあえず東京市、大阪市、山口県に3店の特約店を置き、同月25日から恵比寿ビールを発売しました。

販売面では厳しい船出となりましたが、製品自体はどうだったのでしょう。
原料も設備も技術者も、本場のドイツからそっくり東京へ移したような工場で造られたドイツタイプのビールは、品質も上々で評判は予期した以上によかったようです。
発売1カ月後の明治23年(1890年)4月から東京の上野で開催された第3回内国勧業博覧会に、恵比寿ビールが出品されました。ビールの出品数は当時のビールに対する事業熱を反映して、前2回の内国博を大きく上回る83点に及びました。審査の結果、恵比寿ビール(東京)、浅川ビール(東京)、桜田ビール(東京)、麟麟ビール(神奈川)、札幌ビール(北海道)が3等有功章を受賞し、利根川ビール(東京)、上菱ビール(茨城)、ベースビール(熊本)が褒状を受けるという結果となりました。
この審査報告で、発売直後の恵比寿ビールが麒麟ビールと並んで品質「最良好」と絶賛されました。その一部を引用します。
「麦酒ハ其出品殆ドー百ニ垂ントスト雖モ、其精良ナルモノハ甚少ナク、概ネ苦昧ニ過ギ、或ハ酸味ヲ帯ビ、或ハ粘着過度ニシテ泡沫容易ニ消エズ、其甚キモノニ至テハ、脱栓ト共ニ液ヲ発射スルコト数尺ニ及ベルモノアリ、然レドモ亦甚優等ナルモノナキニアラズ、乃麒麟麦酒、恵比斯(寿)麦酒ノ如キ最良好トス」
ちょっとわかりにくいので、大胆に意訳してみますと、
「ビールは100近く出品されたが良いものは非常に少なかった。多くが苦すぎたり、酸っぱかったり、泡がなかなか消えなかったりしていた。ひどいものは栓を抜いた時に数10センチもの高さに吹き出したりした。しかし良いものもないことはない。麒麟麦酒と恵比寿麦酒は最良だった」

こうした高い評価にもかかわらず、特約販売店が少ないため、国内での売行きは思うようには伸びません。そこで明治23年(1890年)6月ごろには朝鮮、香港、上海、天津、シンガポール、マニラなどアジアの各地へもビールの輸出を試み、販路の拡大に努めるとともに、外国人にも恵比寿ビールが好評であることを宣伝して、国内での販売増につなげようと試みたのです。

発売から約1年後の明治24年(1891年)3月、『国民新聞』は「ヱビスビールが大売行でストックがストックになりそう」という「ストック」を「在庫」という意味に皮肉ったであろうユーモラスな見出しで、以下のような記事を載せています。
「日本麦酒醸造会社の製造に係る恵比子(寿)ビールは昨今大に外国人等にも嗜まれ、ストックに換て該酒を用ゆるより著しく販路を広め、已に帝国ホテル等に滞在する外国人は皆な之を購ふより、ストックは非常の影響を蒙れりと」
ストックビールは、当時日本に愉入されていた多くのビールのなかで、最も評判の高いドイツビールで、日本のビール造りの一つの目標でした。恵比寿の醸造担当であるカイザーもここに在籍していました。当初主流だったのは英国産でしたが、ドイツ領事館が熱心に売り込みをしたことや、味が日本人好みだったことから、偽物が作られるほどの人気となりました。

販売店展開で苦難のスタートをした恵比寿ビールですが、さらなるピンチがやってきます。次回はその辺りのお話を。

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