ヱビス図鑑
改めて探報するヱビスの通ってきた道 vol.1ヱビスをもっと好きに、
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ヱビス裏話
ヱビスビール130年の歴史は、ヱビスビール記念館や公式WEBをはじめ、様々なところで語られてきています。日本のビール史に残る数々のエピソードは、ヱビスを飲む際につい語りたくなってしまうものばかり。
このファンサイトでは、ヱビスビールの歴史をさらに深掘りし、日本のビールづくりにおける様々なトピックスやまだほとんど知られていないヱビスのトリビアなどをご紹介。ヱビスビールをさらに味わい深く楽しむための、良いおつまみになってくれるはずです。
まずは、ヱビスビールの原点であるヱビスビール誕生前夜のお話から始めていきましょう。
ヱビスビールの原点である日本麦酒醸造会社が設立
1853年の黒船来航から西欧文明と本格的に出会うことになった日本。以来20数年を経て、ビールはエリート層に嗜好品として定着し、将来の有望な事業として実業家たちの関心をひくようになりました。明治初めの1870年代から全国各地でビール醸造に乗り出す人たちが現れ、様々なビール醸造所が作られ始めました。
明治18年(1885年)にジャパン・ブルワリー・コンパニー(キリンビールの前身)、明治22年(1889年)に大阪麦酒会社(アサヒビールの前身)が設立されました。
そしてヱビスビールのルーツである日本麦酒醸造会社は明治20年(1887年)に設立され、同年の3ヶ月後には札幌麦酒会社も設立されています。
日本麦酒醸造会社の創立趣意は「輸入防遏(ゆにゅうぼうあつ)」。
日本でのビール需要が増加しているにもかかわらず、国内の醸造所は規模が小さいため醸造量も少なく、さらに品質も外国品に劣っていることに対して危機感を強め、会社設立に至りました。
明治19年のビール輸入高は18万3189円。ちなみに、明治時代の1円の価値は現在では2万円程度と試算されています。つまり36億6400万円程度の輸入量だったと考えられます。さらに輸入ビールは明治20年には約38万円(76億円相当)、明治21年には約46万円(92億円相当)と急増。
当時のビール需要の高まりがよくわかる数字です。
会社設立時の日本麦酒醸造会社の事業計画を見てみると「東京府荏原郡三田村に工場用地9000坪余(約3万㎡)を確保し、醸造所を設立する」とあり、用地購入予算は4000円で工場建設予算は3万円となっていました。つまり、8000万円で土地を購入し、6億円で醸造所を建設するという計画を立てたのです。
東京府荏原郡三田村は現在の目黒区三田周辺で、地形が高台で地質は堅固であることが特徴。そのため地下に貯酒庫を設けるのにも好都合な場所でした。
当時はまだ周囲に田園風景が広がり、日本鉄道品川線(現在のJR山手線)の列車が走っていました。明治22年(1889年)にこの場所にレンガ造りの3階建てのモダンな醸造所を完成することになります。
次回は、この醸造所から生み出されたヱビスビール発売までの経緯をお話ししていきます。お楽しみに!!