ヱビスフォト

なおなおっぴ
2024/06/11 23:29

戸定邸

松戸駅から南に行ったところに、徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜公の弟で、水戸藩主であった徳川昭武公が明治17年に建てた邸宅があります。

「戸定邸」といい、国の重要文化財です。

アイキャッチ画像は、その戸定邸を含む「戸定が丘歴史公園」の入口の茅葺門です。

そして戸定邸は木が生い茂っていて全景はよくわかりませんが、以下のような平屋の建物です。

こちらが玄関になります。

一口に入ると、右に受付、左に昭武公の写真がありました。

ちなみに10時ごろに着いて、ちょうど10時からの説明員の説明を受けたのですが、1対1でした(^.^)

以降はその説明も交えます。

こちらは客間です。

一見質素に見えますが、説明員によると、柱や杉戸の杉は一本の杉から柾目部分だけを削り出していたり、実はかなりすごい作りとのことです。

その客間から、庭を見たところです。

その客間の角を撮ってみました。ちなみに右側の方が西で、天気がいい日は富士山が見られます。

そのため、その辺りだけ大きな木を植えていません。いわゆる借景ですね。

徳川家ということで、葵の意匠が付いた照明でした。

襖の引手も葵です。

欄間も葵です。

説明員曰く、もう徳川の時代ではないということで、葵は意匠に使っても、三つ葉葵は一切使っていないとのことです。

また細かい話ですが、徳川御三家で水戸藩だけが特殊で将軍を出していなかったのは歴史好きの方ならご存じと思いますが、慶喜公は水戸藩主の徳川斉昭公の息子であるにもかかわらず将軍になれたのは、御三卿の一橋家をついだからで、説明員曰く、同じように昭武公も御三卿の清水家を継いでいたそうで、徳川の世が続いていたら慶喜公の後を継いで将軍になっていたはずとのことでした。

ちなみに先ほど兄弟と言いましたが、二人は異母兄弟で、斉昭公は10人の妻がいたそうです。

閑話休題、こちらは昭武公が日中を過ごした居間になります。

こちらは昭武公の奥方の部屋になります。

奥方の部屋には、丸窓がありました。

こちらは公家の出であった、昭武公の母君の部屋になります。

ここにも丸窓がありました。

また写真はないですが、公家の出ということで、母君の部屋にはそれに関連した意匠がついていて、昭武公の母を思う気持ちが感じられます。

例えば欄間には雀の意匠があったのですが、母君の実家の家紋が雀だそうです。

こちらは玄関から左に入ったところにある、客間が見えるお客様のおつきの方の控えの間です。

客間の様子をうかがいながら、ここで休んでいたそうです。

こちらは浴場ですが、説明員曰く、この浴槽は昭武公ご存命の時にはなかったそうです。

浴場はどうしても湿気がこもるので、天井に湿気を逃がす工夫がされていました。

サイドにスリットもあります。

この棟だけ2階があるのですが、お手伝いさんの部屋になります。

そして通路のところに、蔵がありました。

見えているのは昭武公の母君が斉昭公にお輿入れした際の荷物を入れた長持だそうで、これから徳川家に嫁ぐということからか、葵のご紋がついています。

ちなみに説明員曰く、この蔵の壁と戸と床はモルタル造りだそうですが、床はよく磨かれていて、壁や戸と同じ材質とは思えません。

庭は10のつく日に出ることができるそうですが、9日だったので庭には出れず、庭の先の公園部分から邸宅を撮ってみました。

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